佐野美津男が残した掌編の佳品「かきつばたの花」

戦災孤児であった児童文学者・佐野美津男が残した掌編の佳品「かきつばたの花」
短編集『原猫(ウルねこ)のブルース』 (三省堂)に所収】

 

むかし、人の命はみじかかった。しかし、それにしても、つうの場合は、あまりにも、みじかすぎたようである。つうは、わずか六歳でこの世を去り、きしぼじんを通って、ほとけの世界へ行ってしまった。

とはいうものの、長生きすることだけに、意味があるわけではない。みじかすぎる命、子どものままに終わる命、それにだって、人としての、意味はあるのだ。

ましてや、つうは、生まれてから死ぬまでずっと、周囲のおとなたちを、いつもおどろかすほどの、利発な子どもだったから、やるだけのことは、やってしまったようである。そのように思えてならない。

むらさきに さいて うつくし かきつばた  

つうが生きているうちに、たったひとつだけ、周囲の人につたえた俳句である。死ぬ、ひと月ほど前のことだった。10人もいる姉たちの、たくさんの着物のなかの1まいに、いちめん、かきつばたの花の模様のものがあったのだ。

それを見てとっさにつうは、「むらさきに……」と、ロずさんだのだった。即興である。かきつばたの花は、きしぼじんの庭に、季節になると美しく咲きみだれる花だから、つうは、ことさら、すきだったのにちがいない。

つうが死んだあとで、人びとは、「あの、かきつばたの俳句をつくったときに、すでにもう、命のみじかいことを、知っていたのだろう。」などと、しんみりとした口調で話しあったりした。

つうが、はじめに、きしぼじんへおまいりしたのは、三歳の夏である。右の手の中指に、はじめぽつんと、小さくできたかさぶただったが、それがじくじくとひろがり、手の甲ぜんたいに、はげしいいたみが走るようになった。何人もの医者が、いろいろな手当てをしたがなおらない。

「こまったことだ。」「ほんとうに。」なげきあっている父と母に、つうが言った。「きしぼじんさまへ、おまいりに行きとうこざいます。」わずか三歳でも、つうのことばつきは、きちんとていねいだったという。

「うむ、それはよいかもしれない。」と、父がうなずいたのも、わけがあってのことだ。それは、つうが生まれたばかりのころだった。

むかし、身分の高い家では、乳母というものをやとって、その乳を、赤んぼうに飲ませた。つうの乳母は、たつとよばれる女だった。だが、ある日とつぜん、たつの乳が出なくなった。すぐに、ほかの乳母をよびよせたが、つうはいやがって飲まない。

力なく泣いて、やせていくばかりである。ある人が、つうの父に教えた。「きしぼじんさんは,子育ての神さまです。きしぼじんさんに、おまいりしたらいかがでしょうか。」さっそく父は、乳母のたつを、きしぼじんに行かせ、おふだをいただいてこさせた。

おふだには、赤んぼうをだいた、きしぼじんのすがたが書いてある。その日のうちに、たつのむねは前よりもゆたかになり、乳はたっぷりと出るようになった。つうと、きしぼじんは、それほどに、関係が深かったのである。

父はそれを思いだし、つうができものをなおすために、きしぼじんへおまいりすることを、さっそくゆるした。つうの家も、きしぼじんも、同じ江戸のうちだが、西と東にはなれていて,しかもむかしのことだから、かごを走らせても半日かかる。

夏の暑さをさけるために、つうをのせたかごは、空の星さえまだ消えないほどの朝早くに家を出た。それでも、おまいりおわって帰ってきたのは、もうタぐれのころだった。つうは左手の細い指さきに、きしぼじんのおふだをもって、右手のかさぶたをしずかにさすった。

これを夜おそくまで、つうは熱心に、くりかえしたのだ。あくる日に、かさぶたは消えており、おふだを見ると、きしぼじんの絵も、すっかり消えていた。「きしぼじんさまが、おできをもって行ってくださったのですね。」

そういう、つうの周囲では、「ふしぎなことがあるものだ。」「まったく、夢でも見ているようだ。」と、おとなたちが、首をひねったり、うでをくんだりしていたそうである。

それからというもの、月に一度は、きしぼじんへ、つうはおまいりをくりかえし、ますます利発になっていったのだった。

つうが四歳のときに、父と母が江戸をはなれたことがあった。つうは江戸にのこされて、さぞかしさみしかったにちがいないのに、周囲の人に、それを言ったりはしなかった。それでもやはり、タぐれどきには、西のほうの空をひとりながめていることがあった。

人々は、「どうして、つうさまには、親たちが西の国においでになることがわかるのだろうか。」と、ひどくふしぎがったということだ。もちろん、親のいないあいだにも、きしぼじんへのおまいりを、かかしたりはしなかった。

こうしてつうは,きしぼじんとの関係を、ますます強くしながら、六歳の夏のはじめをむかえたのだった。この年、きしぼじんの庭の、かきつばたの花は、なおさらに美しく咲き、おまいりの人たちを楽しませてくれたそうである。

つうは、その日、きしぼじんから帰ると、自分のもちものの、整理をはじめた。大切にしていた鏡を、なかよしの姉のはるに手わたして、「これを、もらってください。」と言ったり、おさないときからだいじにしてきたたくさんのおもちゃを、近所の子どもにくばったりもした。がらくたは、ひとまとめにして、「川に流してほしい。」と、人にたのんだりした。ところが、父も母も、ほかの人も、こういうつうを、おかしいとは気がつかなかった。つうが死んだあと、あれもこれも、「やっぱり、そうだったのか。」と思ったそうである。

夏のあいだも、つうは、へやにとじこもり、しきりになにかを書いていた。そして、秋、11月、つうは、とつぜん、病気になった。

わずか六歳で、つうは、二度と元気にはなれなかった。死んだのだ。

葬式のあと、父は、つうのへやの机の上に、きちんとのこされていた箱を見つげた。あけて見て、父はひどくおどろいた。とても、六歳の子どもの字とは思えない、りっぱな字が白い紙にならんでいたそれを読んで、父はなおさらおどろいた。

つうは、じぶんが死ぬことを、ちゃんと前から知っていたのだ。100人ほどの名前を書いて、「この人たちの、しあわせを、おいのりします。」と、書きそえているものがあった。つうが、生まれてから死ぬまでに、いろいろとかかわりのあった人ばかりである。

そのひとりひとりの名前まで、ちゃんとおぼえていたのだから、親たちがおどろいたのもむりはない。

「おとうさま、おかあさま、わたしが死んだことを、どうぞかなしまないでください。わたしは新しく生まれかわるために、この世を去って行くのです。」という手紙といっしょに、箱の中のものは、そっくりそのまま、供養料をそえて、きしぼじんに、おさめられることになったのだった。その日はちょうど、きしぼじんの御祭礼で、境内は、とてもにぎやかだったそうである。

戦争のために、きしぼじんは焼けてしまった。いまはもう庭に、かきつばたの花が咲くこともない。つうが書きのこしたものが、いまもどこかにあるかどうかもわからない。むかし、人の命がみじかかったころ、それにしても早く死にすぎた子どもがいたことだけは、わかっているのだ。

___________

佐野美津男12歳のとき、東京大空襲により両親と2人の姉を失い、十代のほとんどを戦災孤児として放浪生活をおくる(自伝的小説『浮浪児の栄光』がある)。「それにしても早く死にすぎた子どもがいた」──わたしには、これがフィクションだとは思えない。なお、厚生省が行った調査では、全国孤児総数(沖縄を除く)は123511人。戦争も原発も、小さなひとが、最大の被害者。