吉井勇の「寂しければ」の歌72首も続く。人の世の、あまりにも寂しき。
『吉井勇全集』第2巻に所収の歌集『天彦』「韮生の山峡」は、「寂しければ」の同じ言葉で始まる歌が72首も続く。人の世の、あまりにも寂しき。
一番寂寥を味わった歌人による詠嘆の集積──「昭和9年11月、土佐の国韮生の山峡猪野々の里に、ひとつの草庵を作りて渓鬼荘と名づけぬ。阿蘭若ならぬ庵に、何を思ふとてか籠りゐにけむ。」
そんな頃に、吉井勇を追い求めて、浅草一の美人が土佐の山峡深くまで駆けつけてきた。「形影相隣」の二人であった。
「吉井君は鷹揚で、こせついたところがなくて、一般歌人とは人柄がまるで違ってゐた」(谷崎潤一郎)
「寂しければ人にはあらぬ雲にさへしたしむ心しばし湧きたり」(寂しければ1)
「寂しければ火桶をかこみ目を閉じて盲法師のごともあり夜を」(寂しければ2)
「寂しければ或る夜はひとり思へらくむしろ母なる土にかへらむ」(寂しければ3)
「寂しければせめて昔のおもひでの華奢風流の夢をしぞ思ふ」(寂しければ4)
「寂しければ眠り薬も嚥(の)みにけりしばしの安寝(やすい)欲るがままに」(寂しければ5)
「寂しければ爐(ろ)にあかあかと火を燃やしほのぼのとしてもの思い居り」(寂しければ6)
「寂しければ鳥獣虫魚みな寄り来(こ)かのありがたき涅槃図のごと」(寂しければ7)
「寂しければ別府(べふ)の壮土(わくご)の持てきたる山のわさびもしみじみと嗅ぐ」(寂しければ8)
「寂しければ御在所山の山隈に消(け)残る雪もなつかしと見つ」(寂しければ9)
「寂しければ死にたる友の誰彼のことを思いて目裏(まうら)熱しも」(寂しければ10)
「寂しければ酒をこそ酌めまたしても苦きを啜り酔泣きをせむ」(寂しければ11)
「寂しければ夜も眠らで明かすなり夢を見てだに命消(け)ぬべし」(寂しければ12)
「寂しければことさらゑらぎ(笑らぎ)笑へども我が下(した)ごごろ人し知らずも」(寂しければ13)
「寂しければ自棄(じき)のすがたに振舞へどやがて恥づらくおのが弱きを」(寂しければ14)
「寂しければ山にあれども土佐の海のゆたのたゆたに心通はす」(寂しければ15)
「寂しければ山酒酌めどなぐさますただしらじらと酔ひつつぞ居る」(寂しければ16)
「寂しければ夜半(よは)に目覺めのもの思ひあなや腸(はらわた)斷たるるごとし」(寂しければ17)
「寂しければ萎ゆるこころも然(しか)すがにことに嗔(いか)れば猛りやまずも」(寂しければ18)
「寂しければ友のごとくに釜を愛づ秀眞(ほつま)が鑄(い)りし釜にあらねど」(寂しければ19)
「寂しければ頭(かしら)をむざと剃(そ)りこぼち土佐入道と告(の)るもよからむ」(寂しければ20)
「寂しければ寂しきままに生きてゐむひとり飯食(いひを)しひとりもの書き」(寂しければ21)
【参考】「啄木と何かを論じたる後のかの寂しさを旅にもとむる」
「寂しければまだ夜明けぬに戸を繰りぬ猪野々の里の深霜のいろ」(寂しければ22)
「寂しければ夜のこころもとがり来て不眠の病ひまたも起りぬ」(寂しければ23)
「寂しければ霜に寂びたる庭さきに青き石据う赤き石据う」(寂しければ24)
「寂しければ或る日は酔ひて道の辺の石の地蔵に酒たてまつる」(寂しければ25)
「寂しければかの西行もいづくにか身を隠さましとしも詠ひし」(寂しければ26)
「寂しければいたづら臥も憂からまし假初(かりそめ)の世の假初の宿」(寂しければ27)
「寂しければ御在所山の山櫻咲く日もいとど待たれぬるかな」(寂しければ28)
「寂しければ笈摺(おひづる)負ひて出で立たむ四國めぐりの旅をこそおもへ」(寂しければ29)
「寂しければ空海(くうかい)をこそただ頼め人の情をいまはたのまず」(寂しければ30)
「寂しければ昨日(きのふ)をおもひ今日をおもひ明日を思ひぬうつらうつらに」(寂しければ31)
「寂しければ薩摩へ往きし初旅(はつたび)のことなどおもふ爐の端にして」(寂しければ32)
「寂しければ酔ひて手を拍ち唄うたう今戸益喜の顔もおもしろ」(寂しければ33)
※「この今戸さんの宿にしばしば宿泊していたのが旧制高知高校生だった木村久夫さん。絞首刑になっていなければ93歳。きっと経済学者として活躍されたことだろう。」(by有田芳生)
「寂しければ酒麻呂いかに新醸り香やいかになど思はるるかな」(寂しければ34)
「寂しければ垣に馬酔木を植えにけり棄て酒あらばここに灌がむ」(寂しければ35)
「寂しければ自在の竹の煤(すす)竹に懸けし茶釜も鳴りか出づらめ」(続寂しければ36)
「寂しければ催馬楽めきしざれ歌も酔のまぎれにうたひさふらふ」(続寂しければ42)
「寂しければ古りし自在を炉のうへに吊るして思ふかへらぬことを」(続寂しければ45
「寂しければ山どびろくをあふるべう生椎茸を爐火(ろび)の上(へ)に焼く」(続寂しければ46)
「寂しければ目閉ぢ口閉ぢ涙頬をつたふにまかせ仰寝するかも」(続寂しければ52
「寂しければ昨夜のなごりの酒おくび吐きつつぞ飲む石楠の茶を」(続寂しければ56)
「寂しければ炉に酒を煮て今日もあり韮生山峡(やまかい)冬深みつつ」(続寂しければ58
「寂しければうつそみもなほ飛ぶごとし御在所山の雲ならなくに」(続寂しければ69
「寂しければはやくも丑に起くるなり夜半の爐酒のなつかしきまま」(続寂しければ70)
佐野美津男が残した掌編の佳品「かきつばたの花」
戦災孤児であった児童文学者・佐野美津男が残した掌編の佳品「かきつばたの花」
【短編集『原猫(ウルねこ)のブルース』 (三省堂)に所収】
むかし、人の命はみじかかった。しかし、それにしても、つうの場合は、あまりにも、みじかすぎたようである。つうは、わずか六歳でこの世を去り、きしぼじんを通って、ほとけの世界へ行ってしまった。
とはいうものの、長生きすることだけに、意味があるわけではない。みじかすぎる命、子どものままに終わる命、それにだって、人としての、意味はあるのだ。
ましてや、つうは、生まれてから死ぬまでずっと、周囲のおとなたちを、いつもおどろかすほどの、利発な子どもだったから、やるだけのことは、やってしまったようである。そのように思えてならない。
むらさきに さいて うつくし かきつばた
つうが生きているうちに、たったひとつだけ、周囲の人につたえた俳句である。死ぬ、ひと月ほど前のことだった。10人もいる姉たちの、たくさんの着物のなかの1まいに、いちめん、かきつばたの花の模様のものがあったのだ。
それを見てとっさにつうは、「むらさきに……」と、ロずさんだのだった。即興である。かきつばたの花は、きしぼじんの庭に、季節になると美しく咲きみだれる花だから、つうは、ことさら、すきだったのにちがいない。
つうが死んだあとで、人びとは、「あの、かきつばたの俳句をつくったときに、すでにもう、命のみじかいことを、知っていたのだろう。」などと、しんみりとした口調で話しあったりした。
つうが、はじめに、きしぼじんへおまいりしたのは、三歳の夏である。右の手の中指に、はじめぽつんと、小さくできたかさぶただったが、それがじくじくとひろがり、手の甲ぜんたいに、はげしいいたみが走るようになった。何人もの医者が、いろいろな手当てをしたがなおらない。
「こまったことだ。」「ほんとうに。」なげきあっている父と母に、つうが言った。「きしぼじんさまへ、おまいりに行きとうこざいます。」わずか三歳でも、つうのことばつきは、きちんとていねいだったという。
「うむ、それはよいかもしれない。」と、父がうなずいたのも、わけがあってのことだ。それは、つうが生まれたばかりのころだった。
むかし、身分の高い家では、乳母というものをやとって、その乳を、赤んぼうに飲ませた。つうの乳母は、たつとよばれる女だった。だが、ある日とつぜん、たつの乳が出なくなった。すぐに、ほかの乳母をよびよせたが、つうはいやがって飲まない。
力なく泣いて、やせていくばかりである。ある人が、つうの父に教えた。「きしぼじんさんは,子育ての神さまです。きしぼじんさんに、おまいりしたらいかがでしょうか。」さっそく父は、乳母のたつを、きしぼじんに行かせ、おふだをいただいてこさせた。
おふだには、赤んぼうをだいた、きしぼじんのすがたが書いてある。その日のうちに、たつのむねは前よりもゆたかになり、乳はたっぷりと出るようになった。つうと、きしぼじんは、それほどに、関係が深かったのである。
父はそれを思いだし、つうができものをなおすために、きしぼじんへおまいりすることを、さっそくゆるした。つうの家も、きしぼじんも、同じ江戸のうちだが、西と東にはなれていて,しかもむかしのことだから、かごを走らせても半日かかる。
夏の暑さをさけるために、つうをのせたかごは、空の星さえまだ消えないほどの朝早くに家を出た。それでも、おまいりおわって帰ってきたのは、もうタぐれのころだった。つうは左手の細い指さきに、きしぼじんのおふだをもって、右手のかさぶたをしずかにさすった。
これを夜おそくまで、つうは熱心に、くりかえしたのだ。あくる日に、かさぶたは消えており、おふだを見ると、きしぼじんの絵も、すっかり消えていた。「きしぼじんさまが、おできをもって行ってくださったのですね。」
そういう、つうの周囲では、「ふしぎなことがあるものだ。」「まったく、夢でも見ているようだ。」と、おとなたちが、首をひねったり、うでをくんだりしていたそうである。
それからというもの、月に一度は、きしぼじんへ、つうはおまいりをくりかえし、ますます利発になっていったのだった。
つうが四歳のときに、父と母が江戸をはなれたことがあった。つうは江戸にのこされて、さぞかしさみしかったにちがいないのに、周囲の人に、それを言ったりはしなかった。それでもやはり、タぐれどきには、西のほうの空をひとりながめていることがあった。
人々は、「どうして、つうさまには、親たちが西の国においでになることがわかるのだろうか。」と、ひどくふしぎがったということだ。もちろん、親のいないあいだにも、きしぼじんへのおまいりを、かかしたりはしなかった。
こうしてつうは,きしぼじんとの関係を、ますます強くしながら、六歳の夏のはじめをむかえたのだった。この年、きしぼじんの庭の、かきつばたの花は、なおさらに美しく咲き、おまいりの人たちを楽しませてくれたそうである。
つうは、その日、きしぼじんから帰ると、自分のもちものの、整理をはじめた。大切にしていた鏡を、なかよしの姉のはるに手わたして、「これを、もらってください。」と言ったり、おさないときからだいじにしてきたたくさんのおもちゃを、近所の子どもにくばったりもした。がらくたは、ひとまとめにして、「川に流してほしい。」と、人にたのんだりした。ところが、父も母も、ほかの人も、こういうつうを、おかしいとは気がつかなかった。つうが死んだあと、あれもこれも、「やっぱり、そうだったのか。」と思ったそうである。
夏のあいだも、つうは、へやにとじこもり、しきりになにかを書いていた。そして、秋、11月、つうは、とつぜん、病気になった。
わずか六歳で、つうは、二度と元気にはなれなかった。死んだのだ。
葬式のあと、父は、つうのへやの机の上に、きちんとのこされていた箱を見つげた。あけて見て、父はひどくおどろいた。とても、六歳の子どもの字とは思えない、りっぱな字が白い紙にならんでいたそれを読んで、父はなおさらおどろいた。
つうは、じぶんが死ぬことを、ちゃんと前から知っていたのだ。100人ほどの名前を書いて、「この人たちの、しあわせを、おいのりします。」と、書きそえているものがあった。つうが、生まれてから死ぬまでに、いろいろとかかわりのあった人ばかりである。
そのひとりひとりの名前まで、ちゃんとおぼえていたのだから、親たちがおどろいたのもむりはない。
「おとうさま、おかあさま、わたしが死んだことを、どうぞかなしまないでください。わたしは新しく生まれかわるために、この世を去って行くのです。」という手紙といっしょに、箱の中のものは、そっくりそのまま、供養料をそえて、きしぼじんに、おさめられることになったのだった。その日はちょうど、きしぼじんの御祭礼で、境内は、とてもにぎやかだったそうである。
戦争のために、きしぼじんは焼けてしまった。いまはもう庭に、かきつばたの花が咲くこともない。つうが書きのこしたものが、いまもどこかにあるかどうかもわからない。むかし、人の命がみじかかったころ、それにしても早く死にすぎた子どもがいたことだけは、わかっているのだ。
___________
佐野美津男は12歳のとき、東京大空襲により両親と2人の姉を失い、十代のほとんどを戦災孤児として放浪生活をおくる(自伝的小説『浮浪児の栄光』がある)。「それにしても早く死にすぎた子どもがいた」──わたしには、これがフィクションだとは思えない。なお、厚生省が行った調査では、全国孤児総数(沖縄を除く)は12万3千511人。戦争も原発も、小さなひとが、最大の被害者。
連載32. ある高校生の「読書記録」より。(高校1年生)1966年7月27日。
この前、NHK「妻よ語れというか」を見て思った、啄木の高慢さ。
「文学は神の法廷に於ける。陳述である。そこでは偽りなき自己告白が必ずしも是認されるとは限らない。むしろ告白の衝動をその極限において抑えた深い沈黙が勝利を得るであろう。何故なら神は人間の眼を見給う。友情もまた然り。」(亀井勝一郎)
___________________
7月27日 私大問題懇談会、報告書〝当面する私立大学の諸問題について″文相に提出
連載30. ある高校生の「読書記録」より。(高校1年生)1966年7月14日。
試験が終わった。
夏休みが来る。
夏休みには、本を読もう。
夏休みには、とにかく旅に出よう。京都へ行こうか。
「自分」を見つめよう。成長だ。精進。
『破戒』を読書中だ。戒を破る、誇り高き言葉。
_______________
7月14日~17日 都学連(三派系)第16回大会〔明大〕、小選挙区制粉砕等を決議、12月全学連再建を確認