まぼろしの歌人の面影を探して (……ついに巡りあいました)
面影を探し求めている「歌人」がいます(いました)。
創価大学経済学部教授だった大熊信行さんが、歌人としては口語歌をつくって昭和初期の新興短歌運動に加わり、米沢で「まるめら」を創刊・主宰したことは知られています。(「三行詩」の歌人とくれば土岐哀果、石川啄木、そして大熊信行です)
かつて創価大学の学園祭で講演会があり(1974年10月27日)、そこで「歌人としての大熊信行」と題してある方が講演されて、その口述原稿をもとにした文章を本(『同人歌集まるめら 復刻版』論創社)で読んだことがありました。
わたくしが面影を追い求めているのは 、そこに登場する「まるめら」同人で、名前を「なかくにひさ」という歌人のことなんです (姓が「なか」で「くにひさ」が名です)。
あっ、学園祭でこれを話し、文章を書いている方は梅沢秀司(うめざわひでし)さんという、やはり「まるめら」同人の歌人で栃木県の高校の教員だった人です(以前、連絡を取ろうとしたときにはすでに亡くなられていました)。
梅沢秀司さんの文から引用します。
_________引用開始_________
『まるめら』関係の二名の歌人を御紹介いたしましょう。そのひとりは近藤益雄氏です。十年前の朝日ジャーナル(昭和三九・八・二三)の表紙に大きな活字で「ある精薄児教育者の自殺──近藤益雄の死の訴え」と印刷され、東大教授三木安正氏が一文を発表しておられるのですが、その文の序にあたるところに「非福祉国の象徴」とタイトルして「一人の教師が九州の一隅で数十人の精神薄弱児の仕事に献身した結果力尽きて倒れたという事実は、まだ公的な問題とは考えられず、個人的なこととして葬り去られているのである」これでいいのか。この「聖者のような近藤益雄先生」をみごろしにしてどこに文化国家、福祉国家の面目があると社会に問うていられるのです。しかし、わたくしが皆さんに御紹介したいのは、そのような彼の行為でなくて、同氏の文中に引用された彼の歌です。
この子と むきあって シーソーを ゆすっていると
もう春をのせて しろい雲が おりてくる
この子のひとみに やさしく おりてくる
ここは痴愚天国 いつまでも いつまでも
こうしていたいな
この素朴な「まるめら」調のうたをうたった彼は若い時代(早稲田大学在学中、昭和五年の冬)、川路柳虹氏や村野四郎氏の讃辞をつらねた処女詩集を出版した輝かしい新進詩人であったのです。その彼が「こんな自分の詩をみると、自分のキザな面をみるようでいやだ」と彼に詩をすてさせたのは『まるめら』の歌人なかくにひさでした。くにひさは九州の炭坑夫でした。(中略)彼は驚いたことには子供の時からずっと炭坑生活をしていたので、遂に小学校にもかよえず、したがって字を覚えたのは二十歳すぎになってからだといっていました。だから「字というものがありがたくて仕方がない」といつも、手紙には便箋に米の粒をひとつぶひとつぶ並べたような小さい美しい字をかいていました。彼のうたもまたひとつぷひとつぷ米の粒をみがきぬいたような美しいうたでした。
_________引用終了_________
さて、これお読みになって、いかがでしょうか。「なか・くにひさ」さんの歌、いちど読んでみたいです、よね。
この「文字」とか「言葉」への思いとは、一見対立するかのような「詩」があります。
戦後詩の雄・田村隆一さんの「帰途」です。
________引用開始_________
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
_________引用終了_________
むかしむかしに、バリケード封鎖中のある大学の壁に 、この一節をタテカン文字でかきとどめた活動家の思いと、炭坑夫の思いが通底する回路は何処に……。《参考:『大学ゲリラの唄──落書東大闘争──』三省堂新書》
それにしても、亡くなってから2年後の2000年に出た『田村隆一全詩集』(思潮社)なんて、菊判で実に1,494ページ、枕並み(失礼!定価も23,100円)の厚さもあるほどに膨大な詩作でしたね。
以上、歌人「なか・くにひさ」の面影を探して、でした。
【続きがあります】
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ところがです。
数年前に上記のことをインターネット上にUPして間もなく、S氏という方からブログにコメントが寄せられました。そして、この歌人「なか・くにひさ」の幻の歌、百数十首(!)が印刷された私家版を送ってくださったのです。
その日の跳び上がらんばかりの嬉しさ、いまも胸が躍ることです。
S氏のこのうえない優しい心映えに、鳴謝いたします。