“いまの世に、まだこれほどの男がいるのか。”──後藤正治著『はたらく若者たち』より

太田順一著『写真家 井上青龍の時代』については、後藤正治氏による朝日新聞の書評がよかった。井上青龍への「くぐもった共感と哀惜」があると書く。しみじみとしますね。昔のことですが、後藤正治氏とカメラマン太田順一氏は一緒に仕事をしたことがあった。(二人は盟友です。)

その本、労働現場へのルポの名著とされる後藤正治著『はたらく若者たちの記録』(カメラマンとして太田順一氏が多くの現場に同行。日本評論社1983年)は、後の2004年に『はたらく若者たち』と改題され、岩波現代文庫から出された。岩波版は解説/太田順一

『はたらく若者たち』最終章で作者の後藤正治氏は、ヤマ(夕張炭鉱)の男への畏敬の念を刻む一文を綴っています。──“この修羅場で、このような行動をとりうるとは。いまの世に、まだこれほどの男がいるのか。”──どんな男なのか。

まず岩波現代文庫版のほうで解説を書いている太田順一氏(新著『写真家 井上青龍の時代』のほかに写真集では、大阪湾岸埋立地・重工業地帯の殺風景な場所の花を撮った『化外の花』『ハンセン病療養所 百年の居場所』『女たちの猪飼野』など)の紹介文を引用します。

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『はたらく著者たち』には夕張炭鉱のルポが三つある。雑誌連載のときに訪れたのが「地下労働者」。93人もの死者を出したガス突出事故のあとに再訪したのが「ガス突出」。そして単行本化にあたり、事故がきっかけで閉山となったヤマ(炭鉱)の様子をぜひ書き加えようとして三たび訪れたのが「下請組夫の歌」だ。そのとき私も同行した。フリーといえば聞こえはいいが、仕事がなくてお金はなく時間だけは腐るほどあった私たちが、いちばん安く行ける方法として選んだのがフェリーだった。舞鶴を夜の10時に発ち、小樽には翌々日のまだ真っ暗な朝4時に着く。ウイスキーを一本持って船底におりたが、またたく間に空になってしまった。

夕張の町はすっぽりと雪におおわれていた。ヤマは初めての私にとって、(直轄)と呼ばれる本工の炭坑夫と(組夫)とよばれる下請けのそれとの違いが、まず驚きだった。直轄は34階建ての公団任宅風アパートに住み、組夫は古ぼけた木造の棟割り長屋に住む。そこはかつて置括の住居だったところだ。同じ炭鉱労働者でありながら、これほどみごとな対比の風見はない。

その朽ちかけた炭住長屋で、しかし私たちはヤマの男の気風に出会うことができた。閉山で全員が解雇され、直轄のようにわずかであっても退職金が出るということはなく、再就職も直轄でさえ難しいという状況にあって、組夫に先行きの希望など何ひとつなかった。なのに、突然訪れた見知らぬ私たちにある組夫はごちそうをし、またある組夫は幾晩も泊めてくれるのだった。

「失業した人の世話になるなんて……」

後藤さんと私は顔を見合わせ自嘲げに笑ったが、その実、人情にふれてふたりとも幸せな気分だったのは間違いない。

その取材行でいちばんの収穫は、高橋敏雄さんという組夫を知ったことだった。ガスの突出事故が起きたとき、地の底、明かりも消えた闇のなかで、高橋さんは息絶えたふたりの仲間のからだを抱き寄せて、都はるみの「北の宿から」を歌いながら救援を待っていた。そんな地獄を見ながらも「炭坑はいいよーッ。男の生きがいだよ」という。根っからヤマを愛する人なのだ。後藤さんはこう記す。

「いまの世に、まだこれはどの男がいるのかという、畏敬の念にも似た気持ちで、私は彼の顔を見つめていた」

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遠い日、京大で1960年代後半の学生運動に関わり、その後ライター業に進んで37歳(最初の日本評論社版の当時)になった後藤正治氏の処女作(書き手は処女作において本質的なものをすべて包含する)であった『はたらく若者たち』本文から、その箇所を引用してみましょう。後藤正治氏の「ものを見る原点」がよくわかります。

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そのとき、19811016日午後零時40分、北炭夕張新鉱の坑内下請け倉田工業係員の高橋敏雄)(33歳)は、坑口より3300メートル、海面下810メートルの北第5盤下坑道の先端で2人の後山とガス抜きボーリングをしていた。近くには、盤打機(坑道拡大)の操作をしていた三井建設(坑内下請け)の6人、ベルト運転の作業にあたっていた直轄鉱員3人、計12人がいた。その12人の目と鼻の先で、岩盤を突き破ってガスが突出した。

その一瞬の記憶はほとんどない。身体ごとふっとばされるような衝撃。坑道いっぱいに渦をまいて押し寄せきた真っ黒い炭塵と岩粉。と同時に、電源は切れ、坑道は闇の世界にかわった。

坑道のところどころに救急エアバルブが取り付けてある。エア管にそって、すぼんだ小さなナイロン傘がたれさがっている。闇のなかでも、その場所だけは頭にはいっていた。バルブにむかってやみくもに走った。一列に八つ並んだバルブの一番端の傘の下に飛び込むなりバルブをひねった。隣りの傘に、後山の高木勲(32歳)ともう一人がはいったのを目の縁で感じていた。

ヨタヨタとだれかが倒れ込んできた。腰バンドをつかんで自分の傘のなかに引きずり込む。意識もない。バルブの口に顔を突き出し、身体をゆすぶりつづけた。かれこれ一時間はそうしていただろうか。やっと息を吹き返した。あとで、ベルトの運転をしていた千代田という直轄鉱員だとわかった。

隣りの傘にはいったはずの2人は倒れていた。バルブが錆ついて回らなかったのか、それともエアが出なかったのか、それはいまもわからない。1人を右膝に、もう1人を左膝に抱えた。が、高木勲と大関新二(三井建設、52歳)の2人はもう死んでいた。身体をさすってもゆすぶっても、なんの反応もしてくれない。チクショウ! どうして息をしてくれないんだ! やがて歌が口をついてでた。

 あなた変りはないですか/日毎寒さがつのります/着てはもらえぬセーターを/寒さこらえて編んでます……

闇のなかで、冷くなった2人の遺体をさすりながら、高橋敏雄はただ歌いつづけていたのだった。なぜ「北の宿から」だったのか。日頃もっと好きな歌はあったのに……。それもわからない。

事故当時の模様を、なにか照れたように、ぽつりぽつりと話す高橋さんをみながら、私は、黒々とした坑道の情景を憶い出していた。もし万一、自分が事故に遭遇すればどうするだろう……。おりにふれてふと頭に浮ぶことである。いくら考えてみても、ただうずくまっている姿以外のどのような図も描くことはできない。この修羅場で、このような行動をとりうるとは、いまの世に、まだこれほどの男がいるのか。畏敬の念にも似た気持ちで、私は彼の顔をみつめていた。

遺体を抱えて歌を唱いながら、いったいなにを考えていたのか。ほとんどなにも思い出せない。脳裏には、おっかあと4人の子どもの顔だけがちらついた。そして、火が出たら終わりだ、とぼんやり思っていた。焼き殺されるよりはガスを吸って死んだほうが楽か、とも思っていた。

火が、見えた。その火がうごいた。キャップランプの光だった。そこらにある鉄材を握って、鉄管をパンパンたたいた。キャップランプの男が気づいた。その男は素面だった。ガスが充満したなかをどうしてここまでこれたのか。それもいまもってわからぬことのひとつだ。「いまなら抜けられるぞ」と男がどなった。ガス突出で、人がはって歩けるほどの穴がぼっかりとあいていた。その穴をくぐって坑道にでた。助かったか、とはじめて思った。

立坑ケージで地上にあがる。繰り込み場は人でごったがえしていた。そっと裏口からでた。夜の8時前だったと記憶している。突出から7時間がたっていた。「夕張新鉱大災害報告書」によれば、北第5盤下坑道付近が火につつまれたのは、それから2時間後の1010分頃と記録されている。

家には、妻や子や母が待っていた。いい眺めだった。みんなだきついてきて、ただ泣いていた。

 おーい、帰ったぞ、ビールくれや」と彼はいった。