長野県の「二・四事件」(いわゆる「教員赤化事件」)の資料について。
岡野正(札幌市)さんという方が、私家版で『1930年代教員運動関係者名簿(改訂版)』(1996年)を出されています。
この本は、関係者全員の一人ひとり(!)について丹念に調べられたものです。
出身地、父母、続柄、活動歴、さらには「その後の消息(1996年当時)」までが調査され纏められています。
日本全国および樺太・朝鮮・中国・台湾にまたがる教員運動の全名簿でした。40年間、1万4千4百日の歳月をかけて独りで凄い資料を完成されたものです。
(数年前ですが、問い合わせしたいことがあって、電話でお話したことがあります。たちどころに、答えが返ってきました。親切に丁寧に。お元気にお暮らしでしょうか)
【なお、労働旬報社の『抵抗の歴史』)には、特高資料も収録されており、教員達の当時の詳細な一覧も載っています。特高から見た「転向の信用度」の欄があり、「確」「否」と記入されています。「否」と記入されて“非転向”だったのは、たった一人の若い女性。川上徹さんもお父様のことでいろいろと現地を歩かれた。】
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渋谷(澁谷)信義 1908年5月24日、伊那村字火山199、島太郎・まつ四男、28年長野師範一部卒、在学中から『アララギ』に投稿110首掲載(筆名丘村比呂人)、4月木祖小、30年長地小、筒井泰藏と親交、31年同僚と社会主義研究、32年春日昇の勧めで教労・新教、33年正月上京し油絵4点を中川紀之(二科)の批評受ける、2月6日下諏訪署に検挙、起訴、未決中短歌を葉書で筒井に(200首余)、34年2月1日隣房今村治郎に誕生日祝う歌贈る、5月21日懲役2年執行猶予4年、上京、1936年7月20日富士山麓で自殺(辞世の歌「たえたえてついに果なき淋しさの道とし知らば迷はざりしを」遺す)
小林 濟(こばやし・わたる)1908年2月6日、北小川村大字瀬戸川9891、28年長野師範一部卒、4月木島小、29年4月短期現役兵、31年4月下諏訪小、32年4月澁谷信義の勧めで新教、11月春日昇の勧めで教労、33年2月18日検挙、起訴、34年5月21日長野地裁で懲役2年執行猶予4年、35年帝国更新会、1986年6月死去
矢島周平 1907年4月29日、祢津村西町2149、28年長野師範一部卒、高島小、32年筑摩地小、33年2月17日検挙、28日休職、7月31日退職、43年7月6日検挙、1982年6月20日死去
髙地 虎雄(たかち・とらお)1911年5月9日、倉科村808、和太郎・なほ三男、29年屋代中卒、30年長野師範二部卒、在学中エスペラント学び「哲学の貧困」読む、31年専攻科卒、4月短期現役兵(松本歩兵50連隊)、9月塩崎小、同僚池田實美から「共産党宣言」、32年2月河村卓らの勧めで新教、3月教労、更埴地区責任者、33年2月9日夕方篠ノ井署に検挙、警視庁特高2人に一昼夜拷問、起訴、34年5月21日懲役2年半、10月9日控訴審で懲役2年、上告却下、8月小菅刑務所に下獄、35年2月長野刑務 所へ、11月3日仮釈放、37年1月10日入営(松本50連隊)、9月召集、中国戦線へ、1986年3月28日死去
(『1930年代教員運動関係者名簿(改訂版)』より)
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「…の勧めで新教」=「新教」は、1935年7月頃から創価教育学会が発行していた機関誌である。渋谷、小林、矢島、高地に加え土岐雅美、石澤泰治の6人は長野県の元小学校教員で1933(昭和8)年に赤化教員として検挙されて離職、その後前後して創価教育学会の活動に参加するようになった。
1936(昭和11)年5月発行の『新教』第6巻第5号によれば、当時の創価教育学会は以下の体制である。創価教育学研究所長・牧口常三郎、創価教育学会常務理事・戸田城外、理事・渡辺力、矢島周平、「新教」編輯部・渋谷信義、小林済、創価教育学研究所員・高地虎雄、土岐雅美、石澤泰治。
4年前には、この2・4事件を描いたドキュメンタリー映画『草の実……「2・4事件」の教師たち』(監督・脚本/野口清人、制作/長野映研)もできている。